「数が減っていないから大丈夫」は本当か?
「今年もホタルがたくさん飛んでいたから、この森の自然は守られている」
一見すると安心してしまうようなこの言葉ですが、現代の保全生態学(生物を守るための科学)の視点から見ると、これは非常に危険な誤解である可能性があります。
「相生山緑地」を横切る「弥富相生山線」道路計画を巡り、行政が行っている「ヒメボタルの飛翔数調査(成虫のカウント)」の妥当性が問われています。
なぜ「数を数えるだけ」の調査では生き物を守れないのか?
科学的な理由と、本来行うべき「本当に正しい調査手法」について解説します。
個体数よりも、遺伝子の多様性(質)が重要
生き物の保全を考えるとき、表面上の見かけの「数(個体数)」以上に重要なのが「遺伝的多様性(遺伝子のバリエーション)」です。
いくら一時的にホタルの数が多く見えても、みんな似たような遺伝子しか持っていない集団だとどうなるでしょうか?
- 病気が発生したとき:一匹が弱い病原体に対して、集団全体が全滅してしまう
- 環境が急変したとき:猛暑や乾燥化が起きた際、それに耐えられる遺伝子を持つ個体が残らない
このように、遺伝子の多様性が低い集団は環境の変化に対して極めて「もろい(脆弱である)」状態になります。
保全生態学において、単に「何匹飛んでいたか」だけを見る評価は、科学的に不十分とされています。
道路で寸断される「メタ個体群」
ヒメボタルの最大の特性は、「メスに羽がなく、飛べない」という点です。
自力で移動できる範囲はわずか数メートル程度しかありません。
彼らは、森の中に点在する小さなグループ(局所個体群)同士が細いルートで繋がり、お互いに遺伝子を交換したり、どこかのグループが消滅しても別のグループから補給し合ったりするメタ個体群というネットワーク構造を作って地域全体で生き残ってきました。
ここに幅員12〜16メートルもの道路が通るとどうなるでしょうか?
- 飛べないメスや幼虫にとって、道路は越えられない壁になります。
- ネットワークが寸断され、孤立した小さなグループへと分解されます。
ネットワークを失い、逃げ場も補給もないまま孤立したグループは、環境の変化に耐えきれなくなり、まさに「各個撃破」されるように消滅へと向かっていく危険性があります。
一度入ったら抜け出せない「絶滅の渦」とは?
生息地が分断されて孤立した小集団を待ち受けるのが、保全生態学で最も恐れられている「絶滅の渦」です。
- 生息地が分断され、狭いエリアに閉じ込められる
- 狭い範囲の中で交配を繰り返すため、「近親交配」が進む
- 遺伝障害や生存力の低下が起き、子どもが生まれにくくなる
- さらに数が減り、遺伝子の多様性が失われる(負のループ)
この「絶滅の渦」に一度呑み込まれてしまうと、後から人間が慌てて環境を元に戻したり、道路の通行を止めたりしても、自力で回復することは不可能です。
本来、保全生態学で行うべき「標準的な3つの調査手法」とは?
では、単に生き物を目視で数える以外に、科学の世界ではどのような調査が行われているのでしょうか?
保全生態学では、
- 質(遺伝子)
- つながり(移動の軌跡)
- 生息地(環境の土台)
を多角的に分析する手法が標準とされています。
① 【質】DNA・遺伝子解析(分子生態学的アプローチ)
- 何を調べるか:ホタルの組織や痕跡からDNAを抽出し、「親戚どうしの近親交配がどれくらい進んでいるか」を数値化します。
- 分かること:見かけの数がどんなに多くても、「実は同じ遺伝子ばかりで全滅寸前ではないか」という目に見えないリスクを可視化できます。
② 【つながり】移動追跡と景観遺伝学(ネットワーク解析)
- 何を調べるか:無害な塗料などでマークをつけて移動できる距離を実測する「標識再捕獲法」や、地図データとDNAを掛け合わせる「景観遺伝学」を用います。
- 分かること:「道路が作られたことで、左右のグループ間の交流が何%遮断されたか」を客観的なデータで算出できます。
③ 【生息地】幼虫とエサ(カタツムリ等)の分布調査
- 何を調べるか:夜間に飛ぶ成虫だけでなく、昼間に落ち葉層を調べて「土の中の幼虫」や、主食である陸生貝類の生息密度を調査します。
- 分かること:成虫は風に乗って外から飛んできただけの可能性もあります。「その場所で本当に世代交代が成り立っているか」という生態系の根本的な体力を評価できます。
結論:目視のカウント調査だけでは不十分
名古屋市が行っている「1シーズンに数回、夜間に飛んでいる成虫を目視で数える調査」では、以下のような重要なデータが一切分かりません。
- 「遺伝子がどれくらい偏ってしまっているか」(近親交配の危険度)
- 「グループ同士のネットワークが維持されているか」(メタ個体群の健全性
- 「土の中で育っている幼虫やエサ(カタツムリ等)がどれくらいいるか」(土台となる生態系)
表面上の「数」だけを調査して、裏で進行する遺伝的劣化やネットワークの崩壊を見落としたまま工事を進めれば、数年〜数十年後に「気づいた時には絶滅していた」という取り返しのつかない結果を招きかねません。
不確かさを「問題ない」という大義名分にするのではなく、最新の科学に基づいた多角的なアプローチが必要です。