COP10の精神を振り返る
いまから16年前の2010年10月、名古屋市はある国際会議の熱気に包まれていました。
世界約180カ国から閣僚や専門家など13,000人以上が集結した「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)」です。
この会議で、地球上の豊かな生態系を未来へつなぐための歴史的な国際合意が誕生しました。
それが、開催地や愛知県の名を冠した
の3つです。
名古屋市は、地球環境の守り手として世界から称賛され、大きな責任を背負う都市となりました。
しかし現在、その足元で、COP10の精神を根底から揺るがす事態が起きています。
天白区に残された貴重な里山・相生山緑地を破壊する、都市計画道路「弥富相生山線」の建設計画です。
当時の河村前市長が「開催地の名古屋で里山が守れないのは世界に対して申し訳ない」と語り、一度は事業を休止させたこの問題とともに、COP10の精神について、振り返ってみます。
「愛知目標」:生態系の損失ストップの誓い
「愛知目標(Aichi Target)」とは、2020年までに地球上の生物多様性の損失を止めるために定められた、20の個別目標からなる世界共通のロードマップです。
現在は後継の「昆明・モントリオール生物多様性枠組」へ引き継がれています。 この中では、
- 自然生息地の損失・分断を大幅に減少させること
- 絶滅危惧種の絶滅を防ぎ、その保全状況を改善すること
などが強く義務づけられました。
相生山緑地との矛盾:道路による「メタ個体群」の分断
相生山緑地は、都市部にありながら奇跡的に豊かな生態系が残る、まさに名古屋の「生物多様性のコア(核心部)」です。
特にここを生息地とするヒメボタルは、街のシンボルとして愛されてきました。
しかし、ヒメボタルのメスには羽がなく、飛ぶことができません。幼虫も自力ではわずか数メートルしか移動できない生き物です。
ここに幅員12〜16メートルもの大型道路を通すことは、お互いに行き来して支え合っているホタルのグループ(メタ個体群)を完全に分断することを意味します。
保全生態学には、遺伝的多様性を維持して生き物が存続するためには最低500個体が必要であるという「50-500則」**の危機基準があります。
最も生息密度の高い中央個体群が道路によって破壊されれば、孤立したホタルたちの間で近親交配が進み、坂道を転がり落ちるように絶滅へ向かう**「絶滅の渦」に飲み込まれる懸念があります。
世界に対して「生息地の分断を防ぎ、絶滅を防ぐ」と誓った愛知目標の誕生の地で、自治体自らが「絶滅の渦」を作り出す──。
これ以上の矛盾はありません。
「SATOYAMAイニシアティブ」:人と自然の共生モデル
COP10で日本政府と国連大学が提唱し、世界に広めたのが「SATOYAMAイニシアティブ」です。
これは、原生的な自然を守るだけでなく、農業や林業などを通じて人の手が適度に入ることで維持されてきた「里山(二次的自然)」の価値を見直し、人と自然が持続可能に共生する社会を目指す国際的な取り組みです。
相生山緑地との矛盾:「緑のダム」の破壊と乾燥化
相生山緑地は、まさに都市における「里山共生モデル」そのものです。
地下にある砂礫の層(八事層)が雨水をたっぷりと蓄え、ゆっくりと周囲に湧き出させることで、森と周辺の治水環境(緑のダム機能)を維持してきました。
ところが、道路建設によって地表がアスファルト(不透水面)で覆われると、雨水が大地に染み込まず、そのまま地表を流れていってしまう割合(直接流出率)が、従来の37%から55%へ大幅に上昇すると指摘されています。
これは名古屋市が自ら掲げる「水の環復活プラン」に明確に逆行する数値です。
さらに、地下水脈が断ち切られれば、周囲の湧水は枯渇し、緑地全体が乾燥して里山の生態系が崩壊します。
さらに、染み込まなかった雨水が一気に下流へ流れ出すため、近隣住民の洪水リスクを高めるという皮肉な結果も招きます。
世界に向けて「SATOYAMAの手法で地球を守ろう」と発信した当事者である名古屋市が、自らの手で身近な里山環境を乾燥化させ、破壊しようとしているのです。
「名古屋議定書」:自然の恵みの「公平な分配」
3つ目の成果である「名古屋議定書」は、生物が持つ遺伝資源(医薬品や食品の未来の資源となる情報など)を利用する際、そこから得られる利益を資源の提供国と利用国の間で「公正かつ公平に配分(ABS)」するための国際ルールです。
一見すると、この議定書は特定の先進国と途上国の間の問題に見え、ローカルな道路建設とは無関係に思えるかもしれません。
しかし、その根底にある哲学は「自然がもたらす恵み(自然資本)を、一部の人間が独占したり、目先の利益のために食いつぶしたりせず、人類全体や将来世代のためにフェアに管理する」という普遍的な精神です。
相生山緑地との矛盾:「見えない環境コスト」の他者転嫁
この道路計画において、名古屋市は「時間短縮」という一部の自動車ユーザーが得る一時的な私的便益ばかりを強調しています。
その一方で、道路建設によって失われる以下の巨額な長期的損害(外部不経済)を、事業の費用計算(コスト)から完全に排除しています。
- 森の冷気供給機能が失われる
- 大地の保水力が落ちることによる、下流域の洪水対策費の増大
- 地域住民のウェルビーイング(癒やし)や教育効果の喪失
相生山緑地がもたらす環境的な経済価値(自然資本)を、目先の利便性のために破壊する行為は、「代償(ツケ)を周辺住民や将来世代に不当に押し付ける」構造そのものです。
これは、名古屋議定書が目指した「公正・公平な持続可能社会」の精神に対する背信行為と言えます。
まとめ
いま、名古屋市の財政は危機的な状況に直面しています。
2026年度には過去最大となる約922億円の予算不足が見込まれ、名古屋城や東山動植物園、名古屋港水族館といった市民に身近な公共サービスの値上げが相次いでいます。
市民に痛みを強いる財政状況の中で、インフレや資材高騰によって予算が跳ね上がることが確実な、そして何よりCOP10の3つの国際公約に背く道路建設に大金を投じることは、現代の公共政策学や財政民主主義の観点からも容認されるべきではありません。
「開催地の名古屋で里山が守れないのは世界に対して申し訳ない」
前市長のこの言葉は、単なる感傷ではありません。
国際社会に対して名古屋という都市が結んだ「契約」の重さを捉えた、極めて真っ当な視点でした。
1957年(昭和32年)という、環境意識が皆無だった時代の古い図面を2026年の現代に強行することは、科学の敗北であり、政治の硬直化です。
いま名古屋市が選択すべきは、道路建設の中止(ゼロ・オプション)を議論のテーブルに戻し、市民とともに新しい「自然資本と共生する都市モデル」を世界に示すことです。
COP10開催地として、この相生山緑地問題の行く末を、市民の厳しい目で監視し続ける必要があります。